山口県には長門と周防の二つの国がありました。(防長二国)
長州と言うと長門の国のことのように思われますが、防長二国を合わせて長州とするようです。
防長二国は1359年に大内氏によって統一されて以降分かれていません。大内氏は、西の京と呼ばれた山口市に防長府を置いて、統治をおこないました。山口市は周防の範囲ですが、地理的に防長二国(つまり山口県)の中心にありました。
約200年の後、1551年に大内氏が陶晴賢によって滅び、代わって1557年に毛利元就が防長二国を平定しました。その後、毛利氏は中国地方の太守になりましたが、関ケ原の戦いに敗れて1600年に防長二国の大名となりました。その際に、拠点を山口市にすることを幕府は認めず、長門の日本海側にある萩に居城を置くことになりました。萩は日本海側で、防長二国を治めるには少々不便です。
江戸時代を通じて、毛利藩は萩藩・長州藩であり、長門・周防全体を治めていました。このため、長州というと長門・周防の防長二国全域を示すそうです。
山口県では「長州ブランド」の商品を開発して国内外に売り込みをしています。長州ブランド山口、長州ブランドゆだ、などに山口や湯田温泉は周防じゃないかというツッコミは間違いです。ちなみに、現在の宇部市は長門と周防の両国にまたがっています。
そんなことも話題にしながら、長州ブランドの良品をお楽しみください。