西周(にし あまね) 和製漢語で新しい学を開く

津和野町は人口7500人ほどの山間の町です。山口市中心部からはクルマで50分くらいです。

 

津和野藩は4万3千石を誇り、津和野盆地にそびえる霊亀山に築かれた津和野城の遺構は今もよく残っています。「日本の城100選」にも選ばれており、山上へは観光リフトで登れます。

JR山口線の津和野駅は、山陽新幹線の新山口駅(旧:小郡駅)から出発するSL山口号の終着駅としても、観光客の人気を集めます。津和野は地理的には山口と山陰を結ぶ要衝です。

 

さて津和野生まれの人と言えば、明治の文豪:森鴎外(1862~1922)が最も有名です。鴎外は津和野藩の典医の家に生まれ、10歳まで過ごしました。その後は父の仕事の関係で上京します。

 

その森鴎外の曽祖父の孫(ちょっと、ややこしいですが森鴎外より一世代上ですね)にあたるのが、啓蒙家:西周(にし あまね:1829~1897)です。

西周も津和野藩典医の長男として生まれ、藩校養老館に学びました。優秀な学生であったことを認められ、大阪・岡山・江戸で蘭学を学んだ後、幕府の命でオランダに留学しました。

ライデン大学で法学・経済学・統計学などを修めたのち、帰国して福沢諭吉らとともに明治の「文明開化」に啓蒙的役割を果たしました。東京高等師範(今の筑波大学)の初代校長でもあります。

 

西周の功績は数多くあるのですが、和製漢語の創造も特筆される功績です。

西洋の新しい知識を導入して、新たな学を建てるために多くの造語をしました。

「哲学」「真理」「芸術」「理性」「科学」「知識」「定義」「概念」「命題」「心理」「物理」「消費」「取引」「帰納法」「演繹法」「権利」・・・などが西周の造語と言われています。

 

また、和製漢語のもう一人の大きな功労者は福沢諭吉です。

「自由」「経済」「演説」「討論」「競争」「共和」「抑圧」「健康」「楽園」「鉄道」などが諭吉の造った言葉だそうです。

 

さらに、森有礼が創設して西周と福沢諭吉も所属していた「明六社(主に海外留学経験のある啓蒙家を集めて明治6年に創設された学術団体)」では、ほかにも多くの造語が造られました。「教育」「開発」「経営」「人民」「個人」「商社」「簿記(貸方・借方)」などです。

 

世界の言語史のなかでも、これだけ短時間に新しい言葉が創造されたことは稀有だそうです。

これらの西洋からの訳語である和製漢語は、本来の漢語の意味を変えていたり、ときには反対になっていたりします。ある意味で、自由な発想で作られたものです。

全く新しい学問や思想を取り入れるには、自由な発想がかかせません。和製漢語の創造が、日本の近代化に大きな役割を果たしました。

 

また、漢字の祖国である中国では、中華思想のなかで西洋を「蛮亥」とみていました。清朝末期に、西洋文明を取り入れることを決めた際に、明治維新で一足早く文明開化を果たした日本の和製漢語を利用するのは効率的でした。

この結果、中国現代文のなかに多くの和製漢語が愛用されるようになりました。これは、朝鮮半島など、同種同文の漢字文化圏のなかでは同じです。

中華人民共和国の「人民」も「共和国」も和製漢語だそうです。

 

日本は中国から学んだ漢字・漢語を使って西洋からの新しい学を開きました。そして、中国などアジアの漢字文化圏と西洋の媒介としての役割を果たしました。

これからの日本も、アジアの漢字文化圏の国々と、協力しながら発展していくのが本来の姿だと思います。