萩・花燃ゆ大河ドラマ館は、旧萩藩校・明倫館の跡にあります

大河ドラマ館には、旧明倫小学校体育館を使用しています。

 

藩校というのは、文字通り江戸時代に各藩が武士の子弟を教育するために設置した学校です。江戸時代中期、享保年間(八代将軍吉宗の頃)くらいから各藩で設置されるようになりました。明倫館は享保3年(1718年)と比較的早い時期に、五代藩主毛利吉元によって創建されています。

萩藩は幕末に藩庁を山口に移転したので、萩明倫館が現在の萩高校・山口明倫館が山口高校の前身になります。ストレートに明倫館の名前を引き継いでいたのは、萩明倫小学校になります。

 

花燃ゆ・吉田松陰は19歳の時に、この明倫館の兵学教授となっています。

当時の明倫館には、1000人を超える学生がいました。7~8歳で入学してから10年間に渡り、漢学国学・洋学・音楽・医学・天文・地理・算術・筆道・礼式・兵学・射術・馬術・槍術・剣術・騎術・大砲・柔術・水軍・游泳・銃隊 を学ぶのだそうです。

 

江戸後期の萩藩の人口は約47万人ですが、諸士で男性は5,000人余りです。人生50年の時代に10年間就学していたわけですから、明倫館にはすべての武士の子弟が学んでいた計算になります。

武士でも足軽中間以下の下級武士は明倫館で学ぶことはありません。

松下村塾では、高杉晋作のように明倫館を修了して入塾した諸士と、山縣有朋のように明倫館に行けない下級武士に加えて、松浦松洞のような商人や伊藤博文のような百姓も一緒に学んでいました。

 

余談ですが、当時の萩藩の人口構成はざっと以下です。

家中  4万人・・諸士  1万人 + 足軽中間 1万人 + 家来 2万人

寺社方 1万人・・僧侶  5千人 + 俗人 5千人 

町方   2万人・・商人  1万人 + 職人 1万人

農民  40万人・・百姓 25万人   + 小作 15万人

 

家中 4万人のうち男性は2万人で、働ける期間25年/寿命50年として就労者は1万人です。

このうち、半分の5,000人が今でいう公務員(事務・技官)で、残り5,000人が治安維持(自衛隊・警察・消防・海上保安庁)をしていたと考えれば、士農工商システムは、結構効率的な感じがしてきます。