今日は二・二六事件が起こった日。なかなか理解し難い

昭和11年(1936年)の今日、二・二六事件が起こりました。

 

少し前に、北九州市の松本清張記念館を訪問しました。松本清張は非常な多作な作家で、40年間に700冊以上の著作を残しています。小説、エッセイ、紀行文などのほか、歴史に関する著書も多数あります。しかも、取り扱う歴史の範囲が広大で邪馬台国など古代史から、昭和の政財界まで長期に渡ります。そのなかで、とても力を入れていたのが二・二六事件でした。

 

二・二六事件(読売新聞朝刊S11.2.27)
二・二六事件(読売新聞朝刊S11.2.27)

松本清張をしても、二・二六事件の全容は解き明かすことができていないようです。北一輝論という大作もありますが、今になっても賛否両論で激しい評価がされています。

 

表面的にとらえると、1936年2月26日午前5時に、陸軍の青年将校が約1500人の兵士を率いて起こしたクーデターです。 

岡田首相、髙橋蔵相、斎藤内大臣など重臣を襲撃して、首相官邸、陸軍省、警視庁などを占拠しました。

 

彼らの主張は、立憲君主制を廃して天皇親政を求めたようです。明治維新によって成立した立憲君主制の下では、重臣や軍閥などの力が強くなり、国かたち(国体)が破壊せれ、庶民の暮らしが苦しくなるというものです。君側の奸を倒し、真の民主主義を革新した昭和維新を開くという主張です。

 

この国体というのは、日本は万世一系の天皇の下で君民一体の国のかたちがあるという意味です。当時の日本は、帝国主義を強める欧米列強の間で、苦しい立場にあったので、国力を高めなければならないという危機感がありました。

当初、陸軍首脳は青年将校たちの決起を容認するような動きを見せます。

 

しかし、このクーデターを聞いた昭和天皇は激怒します。

直ちに陸軍大臣に鎮圧を指示し、「朕自ら近衛師団を率い鎮圧にあたる」とまで言い出します。この結果、28日には青年将校たちが率いた部隊は撤退を余儀なくされ、兵士たちは29日には原隊に戻ります。

その後、首謀した19名が死刑となり、多くの軍人や関係者が処分されました。

 

問題なのは、二・二六事件の後に、陸軍の政治への発言力が増していったことです。

事件直後の3月9日に、二・二六事件で九死に一生を得ていた岡田首相(義弟が間違って殺害された)の内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立します。与野党大連立の挙国一致内閣ですが、陸軍はこの組閣に強く干渉して、複数の閣僚の差し替えを強要しました。

 

そして、日本は世界大戦への道を行くことになるのです。実に摩訶不思議なことですが、二・二六事件とその前後にあった日本大転換の真相はなかなかつかみきれません。