大分城(府内城)は修理中

 大分市に仕事で行きました。大分城の追手門は地震で被害を受けています。

 

 4月の熊本・大分地震では、熊本城の大きな被害がニュースで何度も取り上げられて、有名です。大分城は府内城とも言います。天守閣がなくて地味なお城です。

 櫓が壊れたり、大手門の屋根などに被害があって、まだ一部が修復工事中でした。今月中には工事完成の予定ということで、雨の中でも作業が続けられていました。

 

 大分城は府内城とも言います(逆かな?府内城が正式名)。この豊後国府内に、1530年に生まれたのが大友義鎮(大友宗麟)です。1550年2月に家督を継いだ宗麟は、戦国時代を中国の毛利・薩摩の島津らと戦いながら、全盛期には九州北部6か国を支配します。

 

 山口に目を転じると、大内家の当主・大内義隆が家臣の陶晴賢によって自害に追い込まれたのが1551年9月(大寧寺の変)です。その後、陶晴賢は大友宗麟の実弟である大友晴英を当主として擁立(大内義長)した傀儡政権をつくりましたが、1555年の厳島合戦で毛利軍に敗れて自害します。その後、1557年に毛利氏に攻め込まれた大内氏は、大内義長が長門功山寺で自害して、名門大内氏は滅びました。

 

 さて、フランシスコ・ザビエルが日本・鹿児島に上陸したのは1549年9月のことです。その後、鹿児島や平戸で布教をおこない、1551年1月に念願の京に上ります。ここで、日本での布教の許可を得ようとしたのですが、叶わず失意のもと平戸に戻ります。

 

 ザビエルが新たな拠点を求めて、大内義隆に謁見して山口で布教を始めたのは1551年4月です。絶妙のタイミングですが、僅かな期間に山口での信者を増やしていきます。

 そして、大寧寺の変で大内義隆が亡くなると、ザビエルは豊後に移り大友宗麟の庇護の下で布教をおこないます。大分での布教は僅か2カ月ほどで、ザビエルは1551年11月にインドに向けて出帆しています。

 

 ザビエルが蒔いたキリスト教の種は、日本のどこより豊後で根付いていきました。ザビエルの後を継いで、トルレスやアルメイダらが不況と社会活動をおこない、協会や孤児院・病院を設立していきました。この当時、豊後(BUNGO)はヨーロッパで最も有名な日本の地名で、九州本島のことを豊後というと誤認されてもいたようです。1578年に大友宗麟が宣教師カブラルから洗礼を受けると、豊後のキリスト教は一気に広がっていきます。

 

 しかし、豊後といえば宇佐神宮です。元々、八幡信仰のとても強い土地柄ですから、キリスト教とは合いようがありません。大友氏では家臣の離反が相次ぎ、国力が急速に衰えていきます。龍造寺や島津との戦いに次々に破れ、1586年に府内が焼け野原にされるところまで追い込まれます。宗麟は豊臣秀吉の配下に入ることで、大友氏を残そうとします。

 

 翌1587年に大友宗麟は亡くなりますが、この年に豊臣秀吉が伴天連追放令を出します。この政策はそれほど強いものではなかったのですが、徳川家康が1614年にキリスト教の禁教を決定することで改宗の強要がはじまります。その後、寛永年間(1630年代)の迫害を絶えた豊後の隠れキリシタンに対して、万治・寛文年間(1660年代を中心)に「豊後崩れ」といわれる捕縛がおこなわれました。1000人を超える隠れキリシタンが捕縛されたそうです。